1−1
「ふぅ――」
手に持った荷物をベンチに置いて、私もその横に腰掛ける。かなりの時間歩き続けていたので、足はもうがくがくだし、喉もからからだ。しばらくここで休憩しよう。
バッグから水の入ったペットボトルを取り出して一息に飲む。ついさっき、コンビニエンスストアで買ったものだ。コンビニエンスストアなんて入るのは初めてだったから、とても緊張した。
私の名前は御影麻夕。
年齢は14歳で、今月中学三年生になったところ。
血液型はAB型。
趣味は……特にないけど、強いて言うなら本を読むことかな。
小さい頃からパパにいろんな習い事をさせられてたから、ピアノやヴァイオリンが弾けたり、絵を描くのがちょっと得意だったりする。
そんな私は今、最低限の日用品と数日分の着替えを入れたバッグを持って、家からちょっと離れた公園にいる。
今日は金曜日で、時刻はだいたい夜の八時前といったところ。
そんな時間に、私みたいな女の子がどうしてこんなところで一人ベンチに座っているのかというと……まあ、話せば長くなるんだけど、ようは家出をしてきたのだった。
私は長年、パパの横暴に耐えてきたつもりだった。
ちょっとしたことで叱られることにも、私のことをなんでも勝手に決められることにも、行きたくもないパーティに連れて行かれることにも、ずっとずっと耐え忍んできた。
だけど、今回だけは我慢の限界だ。
少なくとも日曜日までは、絶対家に帰ってやらないんだから――。
私は明後日の日曜日、お見合いをすることになっているらしい。
”らしい”っていうのは、私もお見合いのことについて、ついさっき知らされたばかりだからだ。
しかも、相手は私が顔も名前も知らない男の子だということだった。
どうして私がそんなことお見合いしなければいけないのか。
しかも、お見合いということは結婚するのが前提ということだ。
この歳で好きでもない人と結婚を決められるなんて、誰だって嫌に決まってる。
どんなに大人しい女の子だって、家出くらいしようというものだ。
私のパパとママはとても忙しいみたいで、いつも全国を飛び回っていて、海外に出張することも多い。
時々家に帰ってきてはお土産とお小言を置いて、またすぐどこかに行ってしまう。
昔からそうだった。
特にパパは、家に一か月以上いたことなんて、私の記憶にある限りでは二回か三回くらいしかないと思う。
けれど、別に寂しいと思ったことはない。
パパとママがいない間も、ずっと誰かが傍にいてくれたから。
今は琴葉っていう親戚のお姉さんが、私と一緒に暮らしてくれている。
私が物心つく前からよく遊んでもらっていた人で、勉強を見てもらったり、ピアノやヴァイオリンや絵を教えてもらったりもしていた。
琴葉は見た目も綺麗だし、お料理やお裁縫もとても上手で、女の私でもちょっと憧れてしまうような人だ。
琴葉は私がまだ小さかった頃からずっと一緒にいてくれて、今は大学を卒業して、私の家でメイドさんとして働いてくれているのだった。
今日、パパとママが出張から帰ってくるということは知っていた。会うのはおよそ一か月ぶりのことだった。
パパとママがいなくても別に寂しくなんてないけれど、でもやっぱり、久しぶりに会えるのは楽しみだった。家族でいろんなことを話したり、一緒にご飯を食べたりするのを楽しみにしていたのだ。
なのに――
帰ってきたと思ったら、おかえりって言う暇もなく一方的にパパからお見合いのことを告げられた。
私は最初、何が何だか分からなかった。
琴葉も何も聞かされてなかったみたいで、とても驚いていた。
ちょっと時間が経って、だんだんどういうことなのか分かってきて、私は絶対嫌だって思った。
私、まだ十四歳なのに。
お見合いどころか普通の恋愛すらしたことないのに。
パパは昔からそうなんだ。
私にあれしろこれしろって、命令して強制してばっかりだ。
私はパパのお人形じゃない。
私は我慢ならなくて、どうしても嫌で、パパに絶対お見合いなんて行かないって言ったんだけど、もちろんパパは私の言うことなんて全然聞く耳を持ってくれない。
それどころか、私が抗議してる内にだんだんパパの方が怒りだしてきてしまった。
なんとかママがパパのことを宥めてくれたんだけど、ママも『パパとママもお見合いで知り合って結婚したのよ』なんて言って、遠まわしにお見合いを勧めてくる。
いつも一緒にいてくれる琴葉ですら、『もしかしたら素敵なお方かもしれませんし、一度お会いするだけお会いしてみてはいかがでしょうか』なんて言って、パパとママの肩を持つ。
でも、私はどうしてもお見合いに出るのが嫌だった。
だから、家出することに決めた。
せめてお見合いが予定されている日曜日が終わるまで、絶対家には帰らないと心に決めたのだ。
だけど……
「はぁ……」
思わず深いため息が出る。
パパたちに気付かれずに上手く家を出られたのはいいものの、これからどうしようか……。
親戚や友達の家はパパたちにすぐバレるからダメだし、ホテルとかに私みたいな中学生が一人で泊まりに来たら絶対怪しまれると思うし、夜中に外でうろうろしてたら多分すぐ警察とかに見つかって家に帰されちゃうだろうし……。
家の近くだとすぐ見つかると思って少し遠めの公園まで来てみたのはいいものの、あと二日、私はどこでどうすればいいんだろうか。
「はぁ……」
またため息が口から漏れて、春の夜空に溶けていく。
そんなふうに私が公園のベンチに座って一人途方に暮れていると、前から背の高い二つの影が、私の方に近づいてきた。
●
俺は、バイトと近所のスーパーに買い物に行く他は、滅多に家の外に出ることがない。
けれども夕方から夜にかけて、晩飯の前に三十分ほどランニングをすることを日課にしていた。
非健康的な生活習慣と、タバコによる体力低下に対するせめてもの抵抗というわけだ。
この日も俺は、夕方までバイトに精を出した後、簡単に晩飯の下準備を済ませてからランニングに出かけていた。
心なしかいつもよりペースが速いが、それもそのはず、今日の俺は非常にむしゃくしゃしていたのだ。
大学を辞めてからというもの、両親から月々の仕送りの額を半分に減らされてしまったので、仕方なく重い腰を上げて今まで続けてきたバイトの他にも新しいバイトを探していた。
新しいバイトはすぐに決まり、実は今日がその新しいバイトの初出勤だったのだが……。
俺の教育担当になった先輩が、どうしても気に食わなかったのだ。
自分は働かないで横から指図するばかりだし、ろくに仕事を教えてもくれず、訊けば怒るし訊かなくても怒る。
なんなのだいったい、どういう神経構造をしていたらあんな態度を取れるのだ。
おかげで今日は丸一日、非常に不愉快な思いをさせられた。我ながら、よく我慢したものだと思う。
けれどもさすがにこれ以上はやってられないので、バイトが終わって家に帰るとすぐさま店に電話をかけて、一方的に辞めることを伝えた。
いくら根気のない俺でも、一日でバイトを辞めるのは初めてだ。最短記録大幅更新。
まったく……今回は運が悪かった。
だが、これがバイトだから簡単に辞められたものの、就職となると話が違う。
もしこれからどこかの企業に就職して、あんな上司の下で毎日仕事をしなければならなくなったらと思うと、考えただけで胃が痛くなる。
ああ……やっぱり働きたくないな……。
両親には悪いけど、しばらくはバイト生活を続けたい。
そして適当に公務員試験を受けて、役場あたりで働くのが無難なところかな……。
まあ、将来のことなんてどうでもいい。俺の人生なんて、本当にどうでもいい。
とりあえず、バイトは他にもやってるし、今まであんまりお金を使ってこなかったので、僅かながら貯金もある。これは友達がいないが故のアドバンテージだ。きっと、友達がいると遊びに行ったりして完全に行き詰っていたことだろう。悲しいけれど、今回は友達がいなくて助かった。いや、友達がいれば何かと頼れることもあったのか。……やっぱり友達はいた方がいいな。
まあとにかく、今は焦らずじっくり、また自分に合ったバイトを探すとしよう。
ランニングを始めてからおよそ三十分が経ち、俺は自分の家のすぐ近くの公園まで戻ってくる。
その公園は町で一番大きな公園で、ブランコや滑り台などのいろんな遊具が置いてある区画や、家族でピクニックをするのにうってつけの青々とした芝生の区画、サッカーコートが一面入るくらいの広さのグラウンドもある。
普段から日中は多くの子どもたちで賑わっているし、休日はスポーツチームなんかがグラウンドで練習しているし、町内会の夏祭りや運動会等もこの公園で開催されている。
このご時世に珍しい――のかどうかは知らないが、地域住民から愛されている公園である。
けれどまあ、日も完全に落ちたこの時間だと、さすがに人の気配はない。
ランニングする時はいつもこの公園を通っているけど、この時間だとたまに犬の散歩をしているおじいさんとすれ違うくらいだ。
俺は誰もいない公園に入り、近くの適当なベンチに座る。
そして、ポケットからタバコを取り出して火をつける。
ふんわりと甘い香りのするお気に入りの銘柄。
バイトの休憩とかでこれを吸っていると、よく後輩から馬鹿にされる(『慶太さんまたそれ吸ってるんすかぁ? ホント、よくそんなモン吸えますよね……』)。
けど、好きなものは好きなのだ。
コンビニとかには売ってないヤツだけど、いろいろ試した結果、この銘柄に落ち着いた。
煙を肺いっぱいに吸い込んで、思いっきり吐き出す。
タバコを深く吸って深く吐き出すと、なんだか肺が汚れる代わりに心が洗われる気がする。
タバコを片手に、ぼんやりと夜空を見上げる。
タバコというのは、合法的に黄昏ることができるツールでもある。
タバコを吸いながらであれば、女子高生をガン見していても変に思われないと力説するバカなヤツもいるくらいだ。
この公園は住宅地のど真ん中にあるため、あいにくそれほど星空が綺麗に見えるわけではないが、それでも宵闇に輝く白い月は、十分俺の心を癒してくれる。
タバコを吸いながらこうして夜空を見上げていると、昼間のバイトのあのいけすかない野郎のことも、どうだってよくなってくる。
明るい未来を完全に失ってしまった自分の人生だって、自分をまったく必要としないこの世界だって、本当にどうでもいい――。
そうしている内にたちまちタバコは短くなり、火がフィルターに届こうかとしていた。
――さて、帰るか。
帰って風呂入って飯食って、ゲームやって寝るとするか。今日こそ、前から狙っていたレアアイテムを手に入れたいところだしな。
タバコの火を消し、近くの煙管に吸殻を捨てに行く。
それは、その時だった。
「ちょっと、荷物に触らないでよ!」
遠くから甲高い女の声が聞こえてきた。女というより、ちょっと幼さの残る少女の声。
何事だろうかと声のした方向へ顔を向けると、俺のいるところから少し離れた場所に、背の高い影が二つと、小さな影が一つ見える。
俺が公園に入ってきたところからは木の陰になって見えなかったみたいで、まったく気づかなかった。
状況から察すると、どうやら二人の男が女の子に言い寄っていて、女の子の方は嫌がっているらしい。
まったく――俺の家の近所で迷惑な連中だ。
呆れながら思い出すのは、俺がまだ高校一年生で、未来に対する漠然とした希望を失っていなかった頃のことだ。
その日、俺は友達と二人で街に映画を観に行った(その友達とは、高校を卒業して以来連絡を取っていない)。
映画を見終わった俺たちは、互いに映画の感想をぶつけ合いながら、本屋や電器屋なんかを回っていた。
あらかた買い物も終わり、それじゃあもう帰ろうかという段になって、俺は欲しかった本を一冊買い忘れたことを思い出した。
俺は友達を待たせておいて、急いで本屋に戻った。
目当ての本はすぐに見つかった。だから、そんなに友達を待たせておいた時間は長くなかったと思う。
けれど、俺が戻ってみると、友達が三人の少年に囲まれていた。三人の少年はどいつこいつもパンツを腰下までだらしなく下げ、眉を剃り、ピアスをつけていて、典型的な不良少年といった感じだった。
俺は黙って見ているわけにもいかず、すぐさま友達の援護に入った。
俺が来ると三人のターゲットは友達から俺に変わり、とにかく意味不明なことを喚き散らした。
その内容はもはや覚えていないし、そもそもそいつらの国語能力があまりにも低すぎて俺には何を言ってるかさっぱり理解できなかったのだが、ようは下手ないちゃもんをつけて俺の友達に絡んでいたことだけはよく分かった。
俺は引く気はなかった。
別にこっちは何も間違ったことなどしていないのだから、引く必要なんてまったくない。
何より相手は三人とも体が小さく、大して喧嘩が強そうにも見えなかった。
それに比べて、俺は子どもの頃に空手をやっていて当時もそこそこ体を鍛えていたし(今では見る影もないが)、友達の方はすらりと背が高く筋肉質で、中学の時は荒れていてずっと喧嘩してたようなヤツだった(気づけばそいつは完全なアニメオタクになっていた。人間変わるときは変わるものである)。
相手の方が一人多いからといって、知ったことではなかった。
こちらから手を出す気はないけれど、そっちがその気ならボコボコにしてやる。
そんなふうに俺も思っていたから口論はどんどんエスカレートし、殴り合いに発展するのも秒読み段階に入っていた。
しかし、結局大事になるようなことはなかった。
俺が駆け付けてからずっと横で黙っていた友達が、いきなり俺の腕をぐいと引いて逃げるように走り出したのだ。
俺は驚きつつも、仕方がないので友達の後に続いて走った。
後ろから聞くに堪えない罵詈雑言が飛んできたが、あんなパンツの履き方をしていて走れるわけもなく、俺たちは少し走って大通りに出て、不良少年たちを完全に撒いた。
それから俺たちはすぐに電車に乗って家に帰った。
帰りの電車の中で、俺はまだ少し興奮が残っていて、やっぱりあいつらをシメてやれば良かったとも思ったが、冷静になって考えてみると結局そんなことをしても俺たちに得はないし、俺たちに逃げられて真っ赤になっている連中の顔を想像すると笑えた。
あの時と比べて少し大人になった今では、あの時の友達の判断は英断だったと思う。
俺は本当に子供だった――。
とまあ、そんななんでもない、もう何年も前の色褪せた記憶。
――今回については、別に知らん振りをしてもいいのかもしれない。
少なくとも、あの時は絡まれているのが友達だったのに対し、今回は絡まれている少女と俺の間には何の関係もない。
自分が黙ってさえいれば、誰も俺を責めることもないだろう。俺自身を除いては。
だけど――あの時、俺は不良少年たちと口論している時、やっぱりちょっと怖かったのだ。
少年たちに対する恐怖ではなく、殴り合いの喧嘩をするということそのものに対する恐怖があった。
だから、本当は誰か第三者に助けてほしかった。
俺たちが口論していた場所は、そんなに人通りの少ない場所じゃなかった。けれど、通り過ぎる人は誰も彼も知らん振りを決め込んで、俺たちを助けようとはしなかった。もちろん、正義感云々の話じゃなくて、傍からでは単にそんな喧嘩になりそうなほど切羽詰ってるようには見えなかっただけのことかもしれない。でも、誰も助けてはくれなかったのだ。
今、公園には絡んでいる男たちと絡まれている女の子以外には俺しかいない。
警察を呼んだとしても、ここに来るまでに多少の時間はかかるだろう。
その間に何が起こるか分からない。
それに……さっきタバコを吸って血中のニコチン濃度が上がっているせいか、こんな人間の屑の権化みたいな俺でも、ちょっとくらい他人の役に立てたらいいななんて思ってしまった。
俺みたいなヤツを犠牲にして未来ある少女が助かるのであれば、社会全体としてはお釣りがくるどころか一挙両得の感すらある。
これまでの人生、ひたすら面倒事を避けるようにして生きてきた俺だったが――
我ながららしくないなと思いつつ、意を決して俺は三人の方に歩いて行った。
「ねえ行くトコないんでしょ? ウチ来なよ」
「うるさい! どっか行ってよ!」
少女の必死の声に、男たちはゲラゲラと下卑た笑い声を上げる。女の子が恐怖と屈辱で今にも泣きそうになっているのが、顔を見なくても分かる。
本当に、こういった連中の思考回路は理解できない。こんな女の子を虐めて何が楽しいのだろうか。こんな連中も俺と同じ人間だということに腹が立つ。こんな連中、ゴミ以下の屑だ。人権も何もかも取り上げてしまえばいいのにと本気で思う。
だが、今はそんなことを言っても仕方がない。今女の子を助けられるのはこの場において俺だけだ。
さあ、行くぞ――
俺は一度大きく深呼吸をしてから、
「どうかしましたか?」
と、横から三人に声をかけた。
俺の喉から出た声は、自分でもびっくりするくらい小さかったが、それでもちゃんと耳に届いたようで、三人とも俺の方を振り向いた。
二人の男は、まさに誰もが頭に浮かべるチンピラを絵に描いたような出で立ちで、片方は顔の九割が隠れてしまうほど前髪が長くて全身にアクセサリーをジャラジャラとつけており、もう一方はプロレスラーみたいに体がでかくて馬鹿みたいに派手なシャツを着ている。
「なんだテメェ」
でかい方の男がゆっくり俺に近づいてくる。
――ああ、ヤバいな。
近づいてくる男は俺よりもずっと体が大きくて、筋骨隆々としている。
見ろよあの腕、俺の脹脛と同じくらいの太さはあるぞ。
対して俺は、自分でも情けないがぺらぺらだ。
腕も足も棒のようだし、胴体も肋が浮き出て頼りないことこの上ない。
いったい日に三十分のランニングが何の役に立つというのだろうか。
どうする……まともにやりあって勝てる相手じゃないぞ……。
あの時は二人で走って逃げたが、今回の位置関係は俺と女の子の間に二人の男がいるわけで、一緒に逃げることはできない。
第一、女の子の足ではすぐに追いつかれて捕まってしまうに決まっている。
逃げる選択肢はない。
なら……思いっきり大声を出すくらいしかないか……。
ここは町で一番大きな公園だけど、大声で助けを求めれば近隣の民家から人が出てきてくれるかもしれない。
そうでなくても、大事になったらまずいと思って男たちが逃げてくれるかもしれない。
あまりにも人任せな作戦で、いや作戦と呼べるほどの代物でもないけれど……。
どうしようか……やっぱり警察は前もって呼んでおくんだった……。
プロレスラーみたいな男が俺の眼前まで迫る。
ああ、めちゃくちゃ厳つい顔をしてやがる。
こいつがその気になれば、俺なんて一瞬にして不気味なオブジェと化すだろう。
まったく……あんまり似合わないことなんてするもんじゃないな……。
そんなふうに頭の中でぼやいてみるものの、不思議と後悔はあまりなく、俺は再び深呼吸して、カッコ悪いが大声で助けを呼ぶ覚悟を決めた――
「ダリィ、もう行こうぜ」
長髪の男はそう言うと、公園の外に向かってたらたらと歩きだした。
「チッ……」
でかい男も舌打ちしつつしばらく俺を睨んでいたが、結局長髪の男に続いて公園から出て行った。
俺は男たちが完全に見えなくなるまで、その場に突っ立っていた。
緊張した――。
どうやら事なきを得たらしいが、ほっと安心した途端、腰が抜けそうになった。
本当に、生きた心地がしなかった。
心臓はまだバクバクいってるし、膝も大爆笑している。
まったく……似合わないことなんてするもんじゃないな……。
この世の何よりも面倒事に関わることを嫌い、ひたすら他人と交わることを避け、ひっそりとマイペースに、できる限り自分の世界の中で物事を完結させてきたこの俺が、よもや自分から面倒事に首を突っ込んでいくなんて。
今さらながら、自分の取った行動が自分でも信じられなかった。
もう二度と、こんな状況に巻き込まれてなるものか。
やっぱり家の中が安全だ。俺はずっと、自分の家の中にいたい……。
「あの……」
不意に声をかけられて、我に返った。
我ながら間抜けなことだが、チンピラどもに対する恐怖心のために、今の今まですっかり絡まれていた少女の存在を忘れていた。
「その……ありがとう、ございました」
少女は俺の方に近づいてきて、ぺこりと頭を下げた。
「ああ、いや――」
――その時、俺は天使を見た。
歳は十四、五歳と言ったところだろうか。街灯に照らされた黒髪は、一本一本丁寧に漆を塗ったかのような艶やかさ。目はぱっちりと大きく、瞳は黒曜石を嵌め込んだかのように深く澄んで美しい。筋の通った鼻に柔らかそうな唇、白い頬に小柄で華奢な体――
――これを天使と言わずして何と言うのだろうか。
先ほどの男たちに対する恐怖は一瞬にして忘却の彼方へと運び去られた。
この子のためなら、たとえ火の中水の中、死んだところで悔いはない。
いやぁ……たまには似合わないこともしてみるもんだな……。
しばらく俺はその少女に見惚れて立ち尽くしていたのだが、ふと何か言葉を返さなければと思い立ち、
「ああ……うん、どういたしまして」
ぎくしゃくした声で、何とかそう言った。
今度は先ほどとは違う意味で、心臓がドキドキしている。
女の子は俺にお礼を言ったまま、かばんを持って立ち尽くしている。
よく見ると、少し肩が震えている。
可哀想に、すっかり怯えきっているようだった。
大人の男の俺ですら、山下りをしたわけでもないのに膝が大爆笑しているのだから、こんな年端も行かない女の子なら、軽いトラウマになったとしても仕方がない。
もし俺がこの公園を通りかからなかったらどうなっていたかと考えると、本当にぞっとしない。
けど……この子はこんな時間にこんな場所で、いったい何をしていたのだろうか。結構荷物を持っているように見える。
家に帰る途中だったのか、友達と待ち合わせでもしていたのだろうか。
何にしろ――このままさよならをして、この子を一人にさせるわけにはいかない。
俺が家まで送って行ってやるべきだろう。
決して、せっかくだからこの子ともっとお近づきになりたいとかいう邪な気持ちはない。
……まあ、まったくないとは言わないけれども。
「君、家、どこなの? またあんなのに絡まれたら大変だから、家まで送って行くよ」
可愛い女の子に話しかけるということで、先ほどとは違う意味で緊張するが、それでもできる限り平静を装い、声が変にならないように全力を尽くす。
けれど、少女は顔を伏せて、戸惑うような、悲しむような、怒ったような、よく分からない表情を浮かべた。
やっぱり、少し様子が変だ。
まさか、俺のことも警戒しているのだろうか。仕方ないかもしれないが、そうだとしたら、些か――いや、かなり悲しい。
「家は……」
少女がゆっくりと口を開く。
「家は?」
「家に……帰りたくない」
家に帰りたくない。消え入りそうな声で紡がれたその言葉が、俺の脳内でリフレインする。俺はその言葉の意味を、どう解釈するべきなのだろうか。
まだ俺と一緒にいたいという意味なのか。
今夜は俺の家に泊めてくれという意味なのか。
まさか――今の一件で俺に一目惚れしてしまったのではないだろうか――。
……ないな。有り得ない。俺が明日就職するのと同じくらい有り得ない。
人生で一度たりとも女性から好意を向けられたことのない俺だ。もはやそういう幻想を抱ける段階にはない。
もっとカッコ良く彼女を助け出したのならともかく、俺がやったことといえば、消え入りそうな声で男たちに呼びかけただけだ。
それでたまたま男たちの興が削がれて、本当にたまたま事なきを得たに過ぎない。
どんなに惚れっぽい女でも、そんな俺にはせいぜい尺取虫に向ける程度の好意しか寄せないだろう。
しかし……俺に惚れたのではないとすると……
「家に帰りたくないって……どういうこと?」
訊いてみると、少女はますます顔を俯かせる。
俺は急かさず、少女の返事を黙って待ち――ふと、あることに思い至った。
「もしかして、家出してきたの?」
こくりと頷く少女。
家出か……そう言えば、俺も中学生の時にプチ家出をしたことがあったな。
あれは、単に帰りが遅くなって家の玄関の鍵が閉められていたので、一晩友達の家にお世話になって翌日帰宅したところ、親父にこっ酷く叱られたというだけの話だが。
「行く当てとかあるの?」
そう訊くと、少女はふるふると首を振る。
よく見るとその目には、徐々に涙が溜まっていた。
「友達のとことかは……すぐパパに見つかっちゃうと思うし。頼れる人とか、いないし……」
話しているうちに、少女の目からどんどん涙が溢れてきた。
ハンカチもティッシュも持ち合わせていないことが非常に悔やまれる。
俺の胸で泣いていいよ、なんて言葉が頭の中で思い浮かぶが、言った瞬間自分で自分の言葉に酔って吐きそうだったので言わなかった。
頭を撫でてあげようかとも思ったが、嫌がられたら一生立ち直れないと思ったので、これもやめておいた。
けど……うむ……まあ、これはどう考えても、俺が引き取るしかない、よな……。
本来であれば警察に連絡すべきなのかもしれないが、そうすればすぐにこの子は家に帰されるだろうし、この子なりに家出に踏み切った理由があるはずで、その事情も聞かずに一方的に親のところへ連れ戻すのはとても可哀想だ。
「…………」
少女は俯いて肩を震わせている。
行く当てがないということは、大方駅とか公園で夜を過ごすつもりだったのだろう。
あるいは、電車で繁華街の方まで行くつもりだったのか。
けれど、何にしても、さっき見知らぬ男に絡まれたことで、相当怯えているはずだった。
それに加えて今夜は単純に寒い。
「くしゅん」
少女が可愛らしいくしゃみをする。
これは……まあ、仕方ない……。
「じゃあさ……とりあえず、俺ん家、来る?」
「いいの?」
俯いていた少女の顔に、ぱっと光が差す。
その顔が俺には眩しすぎて、つい視線をそらしてしまう。
「ああ、もちろん。狭いし汚いけど、外、寒いでしょ。これからどうするにしろ、俺ん家で一緒に考えよう」
「う、うん」
ついてきて、と俺が先導すると、少女は嬉しそうに俺の後をとてとてとついてくる。
どうやら、俺のことは信頼してくれているみたいだ。良かった。
少女に話しかけようとして、俺はあることに気付いた。
まだ、名前を聞いていない。
「ところで、君の名前は?」
俺が尋ねると、少女は俺の目を真っ直ぐ見つめて、
「麻夕です。御影麻夕」
と言った。
麻夕ちゃん。いい名前だ。この子の印象にすごく合ってる。そう思った。
「麻夕ちゃんか。俺は、石神慶太」
自己紹介って難しいと思うのは俺だけだろうか。
自分で自分の名前を言うだけで、すごい恥ずかしい気持ちになるのだけど。
「よろしくお願いします、慶太さん」
慶太さんだって……こんな可愛い声で名前を呼ばれると、なんだかくすぐったいな。
でも――
「慶太でいいよ」
むしろそう呼んでほしい。
麻夕ちゃんはちょっと逡巡した後、
「じゃあ……慶太?」
……たまらん。録音して目覚ましのコール音に設定すればよかった。
「何、麻夕ちゃん?」
「え? いや、何でもないけど……」
「そっか」
それじゃあ行こうかと、麻夕ちゃんに声をかけて、俺の家に向けて歩き出す。
その後をちょこちょこと麻夕ちゃんが追ってくる。
バッグは俺が持ってあげた。
こういう気遣いができるあたり、まだまだ俺も捨てたものではないなと思う。
とまあ、こうして俺は、一人暮らしをしだしてから初めて――いや、母と妹を除けば人生で初めて、部屋に女性(まあ、年端もいかない少女だが)を連れ込むことになったわけだ。
いや、連れ込むといっては語弊がある。
お持ち帰り? それも違うな。
そう、一人のレディを我が家に招待することになったのだ。
●
麻夕ちゃんと出会った公園から徒歩五分ほどで、俺の暮らすアパートに着く。
アパートを見た麻夕ちゃんは、「これが慶太の家?」と訊いてきた。
なんだかこの建物全体を俺の家だと誤解しているようだったので、一階の奥の部屋だけが俺の家だよと説明しておいた。
麻夕ちゃんは、他の人と同じ家で暮らすなんてすごいねと言って、なんだか激しくずれたポイントで感心していた。
家まで来る途中少し話して思ったけど、麻夕ちゃんはかなり世間知らずなところがあるようだった。
お召し物も何となく高価な感じがするし、自動販売機で飲み物を買ったことがないというあたり(小銭を持っていたからホットココアを買ってあげたのだ)、相当なお金持ちのお嬢様なんだろう。
そんな女の子を、こんな時間に部屋に連れ込もうとしている冴えないフリーター男……。
……冷静に自分の置かれた状況を言葉にしてみると、なんだか頭が痛くなってくる。
俺は実家暮らしの頃から数えても、家に女の子を呼んだことがない。
当然女の子の家に行ったこともない。
ほとほと残念な灰色の人生を送ってきたわけだが、今のこの状況を故郷の家族に見られたならばなんて思われるだろうな……。
一人暮らしの最大の利点は、好きな時に好きなだけ友達や恋人を家に呼べるところにあると思う。もちろん、近隣に住む人たちに対する最低限の配慮は必要だろうけれども。
まあ、俺がその利点を有効に用いたことがこれまで一度たりともなかったことは、もはや言うまでもないと思う。
しかし、ようやく今日、その一人暮らしの最大の利点を存分に活用する日が来たのだった。
家の鍵を開けて、麻夕ちゃんを中に招き入れる。
麻夕ちゃんは行儀よく、「お邪魔します」と言って俺の部屋に入って来る。
麻夕ちゃんが俺の傍を通るとき、不意に花の香りが俺の鼻腔を満たした。
頭がくらくらした。今までに死にたいと思ったことは数知れない俺だったが、こんな幸せな気持ちで死にかけるのは初めてだ。
電気を点けると、はっきりとした白い明かりの下で、俺はあらためて麻夕ちゃんの可愛さを思い知らされた。
本当に、美少女という言葉をそのまま具象化したらこうなるのかもしれない。
かぐや姫や紫の上ですら、これほどではなかっただろう。
俺の部屋をきょろきょろと見回していた麻夕ちゃんとふと目が合って、俺の鼓動が一際大きく鳴り響く。
それを誤魔化すように、
「そこに座って」
顔をそむけながら、とりあえず普段俺が愛用している座布団に座るように勧める。
ああ、情けない、こんな年下の女の子ともまともに視線を交わせないなんて。
けれどこれは生理的現象なのだ。ずっと暗い部屋にいて、ふと明かりを点けると眩しくて目がくらむ、あんな感じ。
俺の真っ暗な人生に、いきなりこんな可愛い女の子が転がり込んだら、どぎまぎしてしまうのも、仕方のないことなのだ。
俺の部屋の造りはキッチンとリビングの二部屋からなっている(構造的には1Kとなっていたと思う)。
風呂とトイレももちろんあるし、ユニットバスじゃなくて別個になっている。
洗濯機も置けるし、広さも男一人が住むのには申し分ない。
家賃も俺の住んでる地域の相場からすれば相当に安く、我ながら中々いい物件を見つけたものだと思う。
もっとも、そこはかとなくお金持ちの香りを漂わせている麻夕ちゃんからしてみれば、こんなところウサギ小屋も同然なのかもしれないけれど。
「ちょっと散らかってるけど、ごめんね」
と言いながら、昨日久しぶりに掃除をしておいて良かったと、内心ホッとする。
これが一昨日だったら、本やら雑誌やらゲームやら服やらお菓子の袋やら使用済みティッシュやらで、俺以外には足の置き場の一つさえ見い出せない状況だった。
珍しく、俺の普段の善行が実を結んだのかもしれない。
とりあえず麻夕ちゃんには俺の座布団に座ってもらって、音がないのも寂しいのでテレビをつける。
バラエティ番組の空虚な笑い声も、このぎこちない空気を和らげてくれるのには大いに役に立ってくれる。
「麻夕ちゃん、晩御飯はもう食べた?」
「ううん、まだ」
そうだろうと思って訊いてみたけど、やっぱりそうだったか。
時刻は午後八時を回ったところ。晩飯をまだ食べていないとなると、そろそろ空腹が堪えてくる頃だろう。
一人暮らしを始めてもう三年が経つ。初めの頃は毎日コンビニ弁当やスーパーの惣菜ばかり食べていたのだが、だんだんそれらに飽きてきて、ここ一年ほどは節約がてら毎日自炊をしているのだった。
面倒くさがりの俺からすれば、奇跡的なことだといってもいいだろう。
結果、たまに実家に帰った時には母に代わって俺が夕食を作るようになり、両親からも料理の腕だけは褒められるというほどにまでなった。
まあ、料理人志望でもないのにこの三年間で一番成長したのが料理の腕というのは自分でもどうかとは思う。
ちなみに今日の献立は、石神慶太特製スペシャル焼きうどんだ。
特製とスペシャルは二重表現になるのだろうか、いやそんなことはどうでもいい。
肉と野菜は既に一口大に切り終えて、肉には下味をつけてある。
あとは適当に肉と野菜とうどんを炒めて、調味料を加えて素早く和えれば出来上がりだ。
極めて簡単かつ美味しくできるので、俺はスーパーでうどんの安売りをしている時にしこたま買い込んでは、しょっちゅう焼きうどんを作っていた。
せっかく人に、それもこんな美少女に食べてもらえるのなら、もっと凝った料理を作りたかったとは思うけれども、こればかりはどうしようもない。こんなことになるとは思わなかったし、何より俺も、今は自分で作った焼きうどんが食べたくて食べたくて仕方ないのだ。
「それじゃあ、俺が作るのでよかったら食べる? 味の保証はしないけど」
「いいの?」
「もちろん。一回誰かに食べてもらいたいと思ってたし」
そういえば、これだけ料理が上手くなっても、家族以外に俺の飯を食わせたことがないなと思って若干悲しくもなるが、もはやその程度で精神的ダメージを食らうような俺ではない。
「じゃあ、お願いします」
「お任せあれ」
麻夕ちゃんのお願いに大仰に答えて、俺はぱぱっと料理を作り上げる。
分量は元々俺一人分の予定だったから、二人で分けると俺としては少し物足りなくなってしまうが、麻夕ちゃんは見た目からしてそんなに食べないだろうから多分問題ないだろう。
レシピ上では二人前になってるし。
もしまだお腹が空くようであれば、冷凍保存してあるご飯をレンジで温めて、卵でも乗せて食べればいいだけだ。
さすがに焼きうどん一品では寂しいので、インスタントの味噌汁を用意する。飲み物は無難に麦茶だ。
「おいしそう!」
料理をテーブルに並べると、麻夕ちゃんが目を輝かせて嬉しいことを言ってくれる。
多分、麻夕ちゃんが普段食べているものに比べればかなり粗末なものだろうけど、味は間違いないはずだ。
「ありがとう。じゃあ、食べようか」
「うん、いただきます」
「はいどうぞ」
そうして二人で俺の作った焼きうどんを食べ始める。
思えば家族やバイト仲間以外の人と食事をとるなんていったいいつ以来のことだろうか。
しかも女の子と二人っきりでなんて、間違いなく人生初の快挙だ。
嬉しさの余り涙を流しそうになるのも、多分人生で初めてだろう。
「おいしい!」
「ホントに? 味濃かったりしない?」
「ううん、とってもおいしい!」
麻夕ちゃんは小さな口でぱくぱくと俺の作った焼きうどんを食べ進める。
気に入ってもらえたようで何よりだ。
焼きうどんは瞬く間になくなり、麦茶を飲み干して麻夕ちゃんはふーっと息をつく。
「お腹は膨れた? まだ空いてるようだったらご飯あるけど」
「ううん、お腹いっぱい。ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
特に会話もないし、料理だって大したものじゃなかったけれど、久しぶりに人と食べた焼きうどんはいつにも増しておいしかった。
麻夕ちゃんのような美少女だと、食事をしている様子を眺めているだけでなんだかとても楽しい気分になれる。
そんな女の子が、自分の作った料理をおいしいと言って食べてくれるのだから、感無量というものだ。
これでデザートでもあれば良かったんだけどなぁ。
だが、ないものは仕方がない。
俺は食後のデザートを堪能できるような余裕のある身分じゃないのだから。
とりあえず食器をキッチンに下げて、流しに突っ込んで水に浸しておく。
リビングに戻ると、麻夕ちゃんは女の子座りでテレビを見ていた。
俺も元の席に腰を下ろし、テレビを見る麻夕ちゃんの横顔を眺める。
麻夕ちゃんは時折くすくすと笑ったり、へーと言って感心したりして、表情がよく変わる。
それを見て、俺もつい笑いそうになったり、しょうもないことを言いたくなったりする。
このまま二人で一緒にテレビを見ながら談笑でもできたら、本当にどれだけ楽しいことだろうか。
しかしそうは思いつつも、やっぱり一応一人の大人として、一時的にでも麻夕ちゃんの身を預かるならば、訊くべきことは訊いておかなければならない。
腹ごしらえも済んだことだし、いよいよ俺は、麻夕ちゃんが家出をした理由を訊ねることにした。
「ねえ、麻夕ちゃん。ちょっといい?」
「何?」
きょとんとした表情でこちらを振り返る麻夕ちゃん。
そのあまりの可愛いさに、一瞬自分が何を言おうとしていたのか忘れかけてしまう。
けど、訊いておかないといけない。
俺の立場の問題だけじゃなく、それが麻夕ちゃんのためにもなるはずだから。
「麻夕ちゃんはさ、なんで家出したの?」
瞬間、麻夕ちゃんの顔が一気に強張った。
やっぱり、麻夕ちゃんとしてはあんまり訊かれたくないことだったかもしれない。
出会ったばかりの人間にいろいろと詮索されるのは、誰だって嫌だろう。
「…………」
麻夕ちゃんは黙ったまま答えない。
目を泳がせて、言おうか言わないでおこうか迷っているみたいだった。あるいは、どう言っていいか分からないのか。上手く言葉にできないでいるのか。
もちろん、無理に聞き出すつもりは毛頭ない。人にはそれぞれ事情があるし、どうしても言えないというのであればそれで構わない。
だから、別に無理して言わなくてもいいんだよと言おうとしたのだが、麻夕ちゃんはゆっくり口を開いて、言葉を紡ぎだした。
「私……今度の日曜日にお見合いさせられることになって」
……は?
一瞬、自分の耳を疑った。
お見合い? お見合いって、あのお見合い? 年頃の男女が結婚を前提に行うという、あの? こんな、結婚可能年齢にも満たないような女の子が?
「パパが私に黙って勝手にいろいろ話進めてて。それが嫌で、私……」
話している内にまただんだんと麻夕ちゃんの声は震え出し、目もうるうるしてきていた。
「そっか……」
あまりに予想外のことに、俺はそれしか言えなかった。
父親からお見合いを強制されたのか。確かに、それじゃあ家出の一つもしたくなるだろうな。
この年頃の女の子なら、好きな男の子の一人や二人いるだろうし、そうでなくても恋愛くらい自由にさせてほしいと思うのが普通だろう。
だけどこの歳でもうお見合いなんて、麻夕ちゃんってやっぱり相当な名家のお嬢様なのだろうか。
「ママも琴葉も私のこと庇ってくれないし……」
ぽつりぽつりと麻夕ちゃんの告白は続く。
”琴葉”――初めて聞いた名前だが、友達だろうか。
「パパもママも、いつも私にあれしろこれしろってうるさくって……」
どうやらお見合いのこと以外にも、学校のことから私生活のことまで、いろいろ鬱憤が溜まっているらしい。
ようやく、麻夕ちゃんの家庭事情と今回の家出の背景が見えてきた。
ようは、以前から麻夕ちゃんは束縛の強いご両親に対して不満を持っており、それが溜まりに溜まった挙句、今回のお見合いの件で一気に爆発したのだろう。
多分、この年頃の子どもであれば、男女を問わず誰でも通る道なんだろうな。
特に、麻夕ちゃんのように特殊な環境に置かれていると、思春期特有のストレスも殊更大きいのかもしれない。
「だから……」
そこまで言うと、それきり麻夕ちゃんは俯いて黙り込んでしまった。
俺は少し、自分の中学高校時代を思い出していた。
自分ばかりが正しくて、自分ばかりがものを感じていると思っていた俺。
いったいどれだけ家族や周囲の人に迷惑をかけたことだろうか。
消し去りたいと思うけれど、そう思えば思うほど強く俺の心に浮き上がる、苦々しい記憶。
今だって、あの頃と比べて自分は成長していると、胸を張ることができないでいる。
本当に救いようがない。
そんな俺に比べれば、麻夕ちゃんのなんて純真無垢なことか。
俺はもう、どうしたってこの子を助けたくなっていた。
「パパもママも、私のことなんて何にも分かってないんだ。ただ自分たちのさせたいことをさせてるだけで、私のことなんてどうだっていいんだ……」
「そんなことないよ、麻夕ちゃん」
「え?」
麻夕ちゃんは少し顔をあげる。
「俺はさ、麻夕ちゃんのお父さんとお母さんには会ったことないからよく分からないけどさ。でも絶対、麻夕ちゃんのことどうでもいいなんて思ってないと思うよ? 麻夕ちゃんのことが大切で、将来幸せになれるようにって考えていろんなことをさせてるんだと思う。それが正解なのかどうかは俺には分からない。麻夕ちゃんにとってはとても窮屈だったかもしれない。そのせいで麻夕ちゃんは嫌な思いをしたかもしれない。けれど、麻夕ちゃんのお父さんとお母さんが、麻夕ちゃんのことどうでもいいって思ってるなんて、そんなことはないよ。だって、もしそうだったら、麻夕ちゃんがこんなにいい子に育つはずないから」
言いながら、俺はいったい何様のつもりなんだと思った。
お前は上から目線で他人に高説垂れられるような身分じゃないだろう。
まずは自分のことを片付けてから、他人のことを気にするべきだろうが。
そうは思ったが、痛いほどそう思ったが、内心胸をズキズキさせながらも、とにかく俺は麻夕ちゃんに伝えたいことを伝えた。
どうにか麻夕ちゃんには、自分が愛されてるってことだけは分かってほしかったから。
「そうかな……パパとママは私のこと、ちゃんと考えてくれてるのかな……?」
「うん、今もきっと、一生懸命麻夕ちゃんのことを探してると思う。不器用かもしれないけど、それでも麻夕ちゃんのこと愛してるはずだよ」
「…………」
麻夕ちゃんはまた顔を伏せてしまう。
「嫌かもしれないけど、麻夕ちゃんのお父さんとお母さんが、麻夕ちゃんのこととっても大切に思ってるってことは理解してあげて」
麻夕ちゃんは俯いて、きゅっと唇を引き結んでいる。
俺の言いたいことは、麻夕ちゃんに伝わっただろうか。
伝わらないだろうな……俺みたいな屑の言うことなんて、俺だったら絶対耳を貸さないだろうから。
でも、ほんの少しでも、麻夕ちゃんの心に何かいい影響を与えられていればと思う。
自分の無力さを痛感しながら、俺は体を反らして宙を睨んでいた。
●
時計を見ると、そろそろ十時を過ぎようとしていた。
テレビの音が、虚しく部屋に響いている。
麻夕ちゃんは先ほどから何も話さず、俯いていろいろと考え込んでいる様子だ。
俺は何も言わない。
もう何も言えないし、そもそも言う資格もないだろう。
俺は麻夕ちゃんのことを、何も知らないのだから。
だけど、もうこんな時間だ。
麻夕ちゃんがこれからどうするにしろ、一旦結論を出さなければなるまい。
「ねえ麻夕ちゃん。今日はこれからどうするの?」
そう訊くと、麻夕ちゃんはますます俯いてしまった。
本当にどうする当てもないのだろう。
家に帰るのはやっぱり嫌だろうし、けれどさっきの公園での出来事もあるから一人で外にいるのはとても怖いだろうし。
俺に女友達の一人でもいれば紹介してあげたりできたのかもしれないけど、そんなのいるわけもない。
だから――
「もし麻夕ちゃんが良かったら、ここに泊まって行ってもいいけど」
麻夕ちゃんがいろいろ考えている間に、俺もいろいろ考えた。とりあえず当面の間、麻夕ちゃんにとってこれからどうすることが一番良いのかを。
「ホント?」
少し顔を上げる麻夕ちゃん。
「ただし、二つ条件がある」
麻夕ちゃんはきょとんと首をかしげる。
まったく、いちいち可愛いなぁ。
やっぱり条件なんて言わずにずっとここにいてもらいたくなる。
けど、そんな気持ちをぐっと堪えて、俺は一人の大人としての役割に徹する。
「明日には家に帰ること。あと、今から家族に連絡すること」
それが、俺が考えた麻夕ちゃんを家に泊める条件だった。
まあ、無難なところだろうと思う。
麻夕ちゃんの心の整理と、麻夕ちゃんを心配して気が気でないであろう麻夕ちゃんのご家族のことを俺なりに考えた結果だ。
けれど、俺の出した条件に麻夕ちゃんは表情を曇らせる。
「でも……明日帰ったら、明後日のお見合いに連れて行かれるかもしれないし、家に連絡したら……」
そうか、お見合いは明後日か。
「それじゃあ明後日まではウチにいていいよ。明々後日は学校があるでしょ?」
「うん……」
それでもやっぱり麻夕ちゃんは戸惑っている。
家出した手前、家に帰るのも連絡を取るのも憚られるのはよく分かる。
だが、ここは俺も譲れない。少なくとも、家には絶対に一報入れてもらわなければならない。
「ね、麻夕ちゃん。一度さ、麻夕ちゃんが思ってること、お父さんとお母さんに伝えてみなよ」
俺が優しく声をかけると、少し間が空いた後、麻夕ちゃんは小さく頷いた。
「うん……分かった……」
俺もゆっくり頷き返す。
麻夕ちゃんは持っていたカバンから携帯電話を取り出して、切っていた電源を入れた。
横からちらっと画面を覗き込むと、やはりというべきか、メールの受信件数と電話の着信件数が凄まじいことになっていた。
麻夕ちゃんは心配そうに俺の顔を見る。
俺は大丈夫だよという思いを込めて、もう一度ゆっくりと頷いた。
麻夕ちゃんはしばらく自分の携帯を見つめていたが、意を決して誰かに電話をかけた。
電話は即座につながったようだった。
「もしも――」
『お嬢様ですか!? 今どこにおられるんですか!?』
「っつ……」
いきなり携帯から大音量が聞こえてきて耳がキーンとしたのか、麻夕ちゃんは顔をしかめて耳を押さえている。
若い女の人の声だった。
”お嬢様”という言葉からして、麻夕ちゃんの家のメイドさんだろうか。
本物のメイドか……一度見てみたいな……。
しかし、この様子じゃあやっぱり麻夕ちゃんの家の人たちは相当心配していたのだろう。
きっと気が気でなく、ずっとあちこち探し回っていたはずだ。
ちゃんと連絡を入れさせて本当に良かった。
「今、友達の家。明後日までは帰らないから」
麻夕ちゃんはきっぱりとした声でそう言う。
だけど、連絡が取れたとはいえ、家出したまま外泊するなんて、向こうもそうそう認められないだろう。
『明後日まで帰らないって――』
――しかし、ふと、女の人の声が不自然な形で途切れた。
どうしたのだろうかと、俺は眉をひそめる。
そして次の瞬間、
『麻夕、今どこにおるんだ!!』
雷鳴が轟いた。
男の人の声――多分、麻夕ちゃんのお父さんだろう。
こう言ってはなんだけど、なるほど声を聞くだけで巌のごとき頑固さが伝わってくる。
「……友達の家」
怒鳴られて、麻夕ちゃんはかなり萎縮してしまった。
麻夕ちゃんの小さな体が、余計小さく見える。
しかし、麻夕ちゃんのお父さんは追求の手を緩めない。
『だからそれはどこなんだと訊いとるんだ!』
「どこでもいいでしょ……」
「あ――」
麻夕ちゃんの肩が、声が、震え出していた。
臨界点突破まであと五秒。
『いいわけがあるか! さっさと――』
「馬鹿! パパの馬鹿!!」
今度は麻夕ちゃんが叫ぶ番だった。
俺は心の中で、ご近所さんに謝った。
「私はパパの人形じゃない! 好きな人くらい自分で決める!!」
多分、こんなふうにお父さんに向かって声を張り上げたのは、麻夕ちゃんの人生で初めてのことなのだろう。興奮して、涙がぽろぽろと零れていた。一滴掬って舐めてみたい。きっと蜂蜜のように甘いことだろう。
けれど麻夕ちゃん、やっぱり好きな人がいるのだろうか。俺としてはちょっと寂しい気分だ。
『親に向かって馬鹿とはなんだ!』
「うるさい馬鹿! パパの馬鹿!」
泣きながら貧弱な語彙で可愛い罵声を浴びせる麻夕ちゃんと、それに生真面目に反応するお父さんの応酬は続く。
このままじゃ埒が明かないな……。
仕方ない、できることなら避けたかったが、俺が麻夕ちゃんと替わって話を――
『麻夕、お前――』
そこで、お父さんの声は途切れた。
どうやらまた、別の人に話し相手が代わったようだ。
今度の相手は落ち着いた人のようで、麻夕ちゃんの携帯電話から相手の声を聞き取ることはできない。
あちらにも冷静な人がいたようで良かった。俺の出る幕はなさそうだ。
お父さんと話している時はちょっと取り乱していた麻夕ちゃんも、落ち着きを取り戻していた。
途中、麻夕ちゃんが”ママ”と言っていたので、どうやら相手はお母さんらしい。
それから麻夕ちゃんと麻夕ちゃんのお母さんの話は5分くらい続いた。
そして、麻夕ちゃんはお母さんに別れの言葉を告げ、電話を切った。
麻夕ちゃんは携帯電話を握ったまま、唇を噛み締めていた。
俺は麻夕ちゃんの傍に寄ると、そっと頭を撫でてやった。
すると、一度は泣き止んでいた麻夕ちゃんだったが、また泣き出してしまった。
「どうなったの?」
泣いている女の子に話をさせるのもどうかと思ったが、これは聞いておかなければならなかった。
「ママが、お見合いの話はなしにするから家に戻ってきなさいって」
「そっか……」
家に帰ることになったのか。
まあ、ちょっと惜しい気はするが、お見合いの話もなくなったようだし、家に帰った方が麻夕ちゃんにとって良いことは明らかだし。
「それじゃ、家まで送ろうか?」
「ううん、ママが迎えに来てくれるって。近くのコンビニで待ち合わせってことになった」
「そっか……じゃあ、コンビニまで送るよ」
「うん、ありがとう」
麻夕ちゃんのお母さんはすぐに迎えに来るらしい。
ということで、俺たちもすぐに家を出て、待ち合わせのコンビニに向かうことにした。
二人で家を出ようとして――俺はふと、あることに思い当たった。
「ねえ、麻夕ちゃん。俺の連絡先教えとくよ。もし何かあったらいつでも言っておいで。なんでも話聞くから」
「うん……ありがとう」
そうして俺の携帯電話のアドレス帳に、御影麻夕の名前と連絡先が加わった。
母親以外では、初めての女性の連絡先だった。
俺たちは、麻夕ちゃんと麻夕ちゃんのお母さんの待ち合わせ場所になっているコンビニに向かった。
麻夕ちゃんが迎えを待っている間、心配だったので俺はコンビニの中に入って雑誌を読むふりをして麻夕ちゃんを見ていた。
しばらくして迎えの車が来た。
一目で分かった。コンビニに場違いな黒塗りの高級車だった。
車がコンビニの駐車場に停まるや否や、助手席から女の人が飛び出してきて、麻夕ちゃんを思い切り抱きしめた。
続いて運転席からも女の人が出てきて、先に出てきた人に替わってやっぱり麻夕ちゃんを抱きしめた。
麻夕ちゃんも含めた御影家の人たちは、二言三言会話した後、すぐに車に乗って行ってしまった。
車に乗る前、麻夕ちゃんがこちらをちらっと振り返った。
俺が小さく手を振ると、麻夕ちゃんも小さく手を振りかえしてくれた。
俺は車が見えなくなるまで待ってから、肉まんを買って家に帰った。
そして、二人分の食器を洗い、風呂に入ってベッドに潜った。
ベッドの中で、ぼんやりさっきのことを思い返してみると、疲れが一気に吹き出してきた。
――それにしてもなんていうか、嵐みたいな出来事だったなぁ。
寒さに頬を上気させていた麻夕ちゃん。
テレビを見て、屈託なく笑っていた麻夕ちゃん。
泣きながら、両親に自分の気持ちを訴えかけていた麻夕ちゃん。
もしかしたら、今日は麻夕ちゃんがまだ隣にいたのかもしれないと思うととても寂しい。
――多分、もう会うこともないだろうなぁ。
俺がもっとカッコ良くて、優しくて、立派な人間だったら、これからお近づきになれるようなこともあったかもしれない。
そう考えると、昨日までの自分にとても腹が立つし、もったいない気持ちにもなる。
でも、「ま、いいか」とも思えた。
少なくとも、これが麻夕ちゃんにとって最上の結果だったと自信を持って言えるから。
なら俺は、少なくとも今日は一つ良いことをしたんじゃないだろうか。
そう考えると、少なくとも――少なくとも、今日は良い気分で眠れそうな気がした。
眠りに落ちる寸前、俺の携帯電話にメールが入った。
もしやと思って見てみると、やっぱり麻夕ちゃんからだった。
メールには、『今日はありがとう。公園で助けてくれたのが慶太で良かった。慶太に会えて本当に良かった』と、書かれてあった。
もちろん女の子から、いやそもそも他人からこんなことを言われたのが初めてだった俺は、頭から布団をかぶって身をくねらせて喜んだ。
そしてつい調子に乗って、『俺も会えて良かったよ。もし良ければ、今度一緒にどこか遊びに行こうか』とメールを返してしまった。
メールを送信してからちょっと調子に乗りすぎたかなと後悔したが、すぐに『行きたい!』という返信が来て、俺は体をくねらせすぎて、ベッドから落ちて頭を打った。
あとがき
お嬢様ファンタジア1−1、ご覧いただきありがとうございました。
いかがでしたでしょうか?
この物語は、ご覧いただいた通り、慶太と麻夕それぞれの視点から話を進めていくことになります。
1−1では最初以外はずっと慶太視点でしたが、次からは麻夕や新たな登場人物の視点も増えてくるかと思います。
まあ、慶太の視点が多くなることは仕方ありません。主人公ですから。
いや主人公はともかくとして、麻夕はどうだったでしょうか? ちょっとでも可愛いと思っていただけましたか?
麻夕の可愛さをしっかり描くことができたかどうか、とても不安です。この話だけだと、まだ何とも答えられませんかね。
この物語は特に笑えるところも胸が熱くなるところもありませんが、とりあえずほんわかした気分ですらすら読んでいただくことを目標としていますので、そのつもりでお願いしますね!
ではまた、次の話でお会いしましょう! さらば!
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